礼拝説教 2023.6.11 石橋貞男
「聖霊の導きに従って歩む」
マタイによる福音書25章31~36節
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」
先ほど司会の田中さんにマタイによる福音書25章31節から36節までを読んでいただきましたが、今日は25章の31節から46節までの少し長い箇所からお話をします。今日の説教題は、「聖霊の導きに従って歩む」としました。今日の説教題と聖書個所は何かかみ合わないように思われますが、今日の聖書箇所から、聖霊の導きに従って生きるということと肉に従って生きるということの違いを見たいと思います。聖霊の導きに従って生きるということは、私たちが自分の思いではなく、聖霊に促されて行動するということです。自分の狭い考えで行動するのではなく、神様の開かれた自由なお考えに従って行動するということです。それに対して、肉に従って生きるということは、神様なしで生きることであり、自分の能力、実力、功績によって行動するということです。それはどうしても人と比べる生き方になり、人から認められるかどうかが気になり、人から誉められないとやる気を失い、やがて辛くなり、苦しくなり、自分がしていることの意味が分からなくなる生き方です。
ここで、マタイによる福音書25章の31節から46節までをお読みします。聖書を開いて見られるとよいと思います。新共同訳では50頁からです。マタイによる福音書25章の31節から46節
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いていたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
肉に従って生きる時その人の行動は、成果が上がり、効果があり、効率がよい生き方になる危険性があります。自分がしたことが人に認められなければならないからです。だから、影響力がある人のことに意識が集中して、その人が困っていたら何かをしてあげるけれども、最も小さな人が困っていても気づかないということが起きるかもしれません。それに対して、聖霊の導きに従って生きる時、人を偏って見ることがなく、自分を愛するように隣り人を愛し、見返りを求めません。その人の生き方は霊が結ぶ実である、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を実践する生き方となり、人が困っているのを見ると自然と手を差し伸べる行動となるでしょう。聖霊の導きに従って生きている人は言います。「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」これはルカによる福音書17章10節の言葉です。ここには、見返りを求めない自由な生き方があります。人が見ていようと見ていまいと、喜んで生きる生き方があります。
肉に従って生きるとうことは、神様なしで生きるということでもあります。ルカによる福音書12章13節から21節に、「『愚かな金持ち』のたとえ」があります。今日は16節からお読みします。ルカによる福音書12章16節から21節
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
この金持ちは、独りで思い巡らします。そして、自分で自分に話しかけます。その箇所をもう一度お読みします。
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
ここには、神様との対話がありません。この金持ちは自分独りで思い巡らし、自分で自分に話しかけます。この金持ちは、外に開かれていません。自分独りです。自分がすべてです。自分のことしか考えていません。最後の21節にはこうあります。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」これに対して、私たちが聖霊に導かれて歩むとき、神様の前に豊かな人生を歩むことになります。それは、思い悩みから解放された人生でもあります。神様を信じれば、災難から逃れられるということはありません。聖霊に導かれて歩いても、災難に遭います。しかし、神様と共に歩む人は、災難の中で、自分独りではなく、自分独りで思い悩むことはなく、神様と語り、出口を見つけます。自分独りで生きる生き方をするとき、私たちには出口がありません。自分の中で思い悩み続けます。イエス様は、私たちに「思い悩むな」と言われます。ルカによる福音書12章22節から28節にはこうあります。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。
神様は私たちに必要なものを備えてくださいます。日々の生活の中で、その神様の業に心をとめ感謝しましょう。
私たちが聖霊の導きに従って歩むことができるのは、イエス様のおかげです。イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪、父なる神様に背中を向けるという罪を贖ってくださいました。そのイエス・キリストを父なる神様が復活させられました。イエス様によって私たちは、神様の霊である聖霊をいただき、「イエスは主なり」ということができる者とされました。
最後にガラテヤの信徒への手紙6章8節の言葉を見ましょう。これはパウロの言葉です。ガラテヤの信徒への手紙6章8節、「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」ここで「霊に蒔く」とあるのは、「霊によって生きる」ということです。もう一度お読みします。「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」