礼拝説教2023.6.18 石橋貞男

「真実を語る」

エフェソの信徒への手紙4章20節~25a

しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいて正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。

 

今日は父の日ですのでそれにふさわしい話が良いのでしょうが、残念ながら父の日とは関係のないお話をさせていただきます。今日は、最近私が捕らえられている聖書箇所からお話をします。エフェソの信徒への手紙の言葉です。このエフェソの信徒への手紙は、パウロ自身が書いたのではなく、パウロの弟子かパウロの信仰を受け継いだ人が書いたものだろうと言われています。正真正銘のパウロの言葉ではないものの、パウロの信仰を受け継いだものです。今日の聖書箇所エフェソの信徒への手紙4章20節から25節までをお読みします。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいて正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」

ここで気を付けなければならないことは、これを努力目標とか、こうでなければならないという義務として受け取ってはならないということです。それは、パウロが言う、「肉に従って生きる」という生き方となり、自分の力、能力、功績に頼ることになります。そうではなく、パウロがガラテヤの信徒への手紙5章16節で言っている、「霊の導きに従って歩む」という生き方によって聖霊の助けをいただいて自然にそのような行動になるということが大切です。先ほどの聖書箇所をもう一度お読みします。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいて正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」

 私は、最後の「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」という言葉を実践し始めました。神学校の授業の中で、「説教は真実を語るものであり、理想を語るものではない。ボロボロの自分という真実を語らなければならい。」と教えられました。この話には前後の話の流れがありますので単純に、「ボロボロの自分を語りなさい」ということではないのですが、私は「真実を語る」ということは、「イエス・キリストを、また、イエス・キリストの命に生かされているありのままの自分を語る」ということだと思います。いろいろな言葉で飾りつけをせずに、また、この方が人に伝わるだろう、人間の常識に近づくだろうと思って変えるのではなく、神様から示されていることを、そのまま語ることだと思います。これは、説教に限らず、人と話すとき、「イエス・キリストの命に生かされているありのままの自分を」素直に語るということだと思います。そうしなければ、人との対話が一般的な話になってしまうと思います。誰がいつどこで語っても違いがない一般的な話、せっかくその人が今ここで語る言葉が、いつどこで誰が語っても同じ響きしか持たない言葉になってしまいます。せっかく人生の中で出会い、話をする機会を与えられた人との対話があまり意味のない話で終わってしまいます。そうではなく、少し恥ずかしいのですが、真実を素直に語ってみる。私は、そこに本当の対話が生まれると思います。本当の説教が生まれると思います。その人しか語れない言葉、おおげさに言えばその人が今まで生きて来た人生を引っ提げた言葉を語ることが「隣人に対して真実を語る」ということだと思います。

 私は最近気づいたことがあります。それは、「私は小手先で福音を伝えようとしていた」ということです。新しく教会に来られた人から質問された時に、質問された言葉の意味を調べて説明をしていました。しかし、それは間違っていました。言葉の意味なら、ネットで検索すれば説明が出てきます。そうではなく、質問されたことを「私はこう生きている」と私の真実の姿を語らなければならないと気づかされました。

 コリントの信徒への手紙一1章18節にはこうあります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」また22節から25節までにはこのようにあります。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 「十字架の言葉」とは、福音のことです。つまり、「イエス・キリストが私たちの罪の贖いとして十字架にかかり、三日目に復活されて、私たちをイエス・キリストの命に生きるものとしてくださった」ということです。十字架の言葉は、人間が理性で理解しようとしても分かりません。頭で考えても分かりません。信仰によってしか分かりません。十字架の言葉を理性で読むとき、それは愚かな言葉でしかありません。「何を馬鹿なことを言っているのだ。十字架で死んだイエスが私たちの罪の身代わりというのは、どういうことだ。理解できない。」パウロもそうでした。パウロは十字架にかかって死んだイエス・キリストが救い主のはずはないと思っていました。申命記22章23節にはこうあります。「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」パウロはこの言葉を知っていたでしょう。木にかけられて死んだイエス・キリストは、神に呪われたものである。それが救い主であるはずはない。キリスト者は何とおかしなことを言うのか。パウロはそう信じていたので、キリスト者を迫害したのです。ところがパウロ、そのときはまだ「サウロ」という名前で呼ばれていましたが、キリスト者を迫害するためにダマスコに向かう途中、突然、天からの光が彼の周りを照します。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞きます。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町へ入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」サウロの目は見えなくなります。そのサウロにキリスト者であるアナニアが神様によって派遣されます。アナニアはサウロの上に手を置いて言います。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現われてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり目が見えるようになります。サウロは身を起こして洗礼、バプテスマを受けます。パウロはキリスト者を迫害する者から、イエス・キリストを宣べ伝える者へと変えられました。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙3章13節にこう書いています。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」パウロが理性でイエス・キリストを見たとき、「イエス・キリストは木にかけられた者、神から呪われたもの」でした。しかし、パウロが復活されたイエス様と出会い聖霊の助けによってイエス・キリストを見ることにより、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」と告白する者へと変えられました。

福音は、信じない人にとっては「つまずきの元であり、愚かな話」でしかありません。しかし、わたしたちが宣べ伝える「十字架につけられたキリスト」は、「神の力、神の知恵であるキリスト」なのです。福音は、私たちが小手先で伝えるものではありません。私たちは、イエス・キリストの命に生かされているという存在として、福音を宣べ伝えさせていただきましょう。少しの恥かしさを覚えながらも人に真実を語るものとしていただきましょう。私たちが勇気をもって真実を語るとき、そこで神様が働いてくださり、私たちの言葉を、私たちを用いてくださいます。